( )店員さんのBlog

なんか書き殴ってます

「お前のため」という隠れ蓑は少々アレな感じ

どうも、川上です。(CV:麒麟の川島さん)

 我らがジャパーンにはこんな言葉がありまして、それは

 「怒られているうちが華」

というもの。この言葉はよく中学生から大学生に至るまで、僕のみならずみなさんもよく耳にされてきたのではないかと思います。指導あっての向上、多少口うるさかったとしても導いてくれたり、自分では気付けない過ちをただしてくれる人間がいることはやはり素晴らしいこと。好きの反対は無関心とはよく言ったもんでして、怒ったり注意されなくなってしまった人間に、もはや周囲は価値を感じていないのではないでしょうか。

ですが、僕はこの言葉と同列に近い扱いを受けているある言葉が少し(結構?)苦手です。それは

「お前のためを想って怒っているんだぞ!」

という言葉です。

 

 

対象は他者にあらず

これは違うだろと。人から理解を得たり心理誘導するために「怒る」という手段があったとしても、それを自分から言うのはいま怒っている自分の価値を下げたくないからではないかと思うのです。相手に歯向かわれないように、相手の心の中に「怒っている自分」を正当化させようとしているのではないかと感じてしまうのです。 ではなぜ僕はそう思うのか。それは「怒り」という感情が持つ方向性がキーポイントです。

 

「怒り」は自己の感情容量の崩壊。対象は自己。

「諭し」は道理を理解させること。対象は他者。

  

つまり、なにかしらの原因により「怒り」の感情がふつふつと沸き上がってくるのでしょうが、その原因に対して「怒り」をぶつけることはまた別問題なのではないか、というワケです。

 

たとえばメチャクチャむかつくことがあったとしましょう。大事にしていたものを壊されたり盗まれたり、はたまた約束を破られて寒空の下2時間待たされてようやく相手が来たと思ったら「ブンブン、はろーYouTube.」と言われたでもなんでもOKです。そのときに「怒り」という感情をぶつけるということは、相手の心情は一切配慮していないのではないでしょうか。「うわぁこの人マジでイケメン」とか「やべぇよこの子めちゃくちゃカワイイんですけど」って思いながらマジギレしてる人なんてさすがにいないでしょう。むしろ、そんな風に思ってたら「怒り」が収まってしまいそうです。

 

つまり、「怒り」とはあくまで自分の感情をコントロールできる限界を超えてしまった状態にすぎない、ということです。そこには他者を思い遣る余地なんてどこにも存在しておらず、 自分の思い通りに行かない事象に対し、他者に感情をぶつけ甘えているに過ぎないのではないかと思っています。

 

では、「お前のために〜〜」という行動はどこが欺瞞に満ちているかといいますと、「自分は本当は怒ってなんかしてないんだけど、アイツは怒った方がいいから、今後のためにもわざと怒ってフリをしておこう」というスタンスを作りつつ、それを表現することにより自分の価値と立場を維持しようとしているのが透けて見えるからです。だったら言わずに黙ってた方が効果的だよと。そこに「俺、ホントは優しいんだぜ」みたいなのを匂わせるのはなかなかどうしてと、そう思うのでした。みなさんはどう思いますかね?

 

ほなまた。