( )店員さんのBlog

なんか書き殴ってます

善と悪といふものは、人間の性質かなんかではございません

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川上(@okyaaaann)ですよ、ええ。

 

この世には善と悪という概念がありますが、それを性善説やら性悪説やらで学んだだけでこれを人間の性質もしくは特性と考えている人ははっきり言って間違っているのではないかと個人的には思うのです。

なぜ僕は性善説性悪説は間違っていると言うのでしょうか。そしてもしこれらの考えが間違っているとしたら、みなさんは善と悪というものがいったいなんだと考えるでしょうか?

 

先天的なのか後天的なのか

もし人がみな善人ならば、こんなにも他者を疑い、嫉妬や憎悪にまみれ、血で血を洗う戦いも起こりえないのではないでしょう。おそらく世界は現実よりも平和であるだろうし、貧困やエネルギー問題ももう少し改善に向かっているかと。

もし人がみな悪人ならば、そもそも人間同士信じたりもしないのではないでしょう。嘘をついたり騙すことを前提とした関係性には、人間を人間足らしめる言葉なんてものも必要ないとすら考えられのではないでしょうか。

 

ならば、人は善と悪の均衡線上に位置し、瞬間的に善にも悪にも切り替わる存在なのではないかという考え方はどうでしょうか。人は元々は善でも悪でもなく、基本的には自然な状態であり、これがなんらかの事象により切り替わるものなんじゃないだろうか、と。

しかし、やはりこれもしっくりきません。善悪がそのつど切り替わるものであれば、もはやこの概念に価値を置く必要性はなく、人からしてみればもはや判断すらつかなくなってしまうのではないでしょうか。ではこの問題をどう解くのか。それは前提条件を変えるとこにあります。

 

善と悪はという概念は、人間に先天的に備わっている性質ではなく、後天的に開発された尺度だと考えてみてはどうでしょうか。

 

ただの生存戦略

人が何かしらの行為を行ったり、もしくはなにかしらの事象が発生したとします。そのとき、人はそれらの物事に対してメリットやデメリット、プラスやマイナスなどの判断を下します。もちろんいまあげた二項対立で判断しきれない問題は多々存在しますが、物事に善し悪しというラベルを貼ることが問題解決を行うにあたっての1つの材料となりえるのは明白でしょう。

 

人は自分の心のバランスを整えるために、とりあえずなんらかの決断を出そうとする習性があります。それは思考や言葉に明確な決着をつけず、心の中で楔と化し、心の中でしこり化したものが存在することを、人は本能的に嫌っているからではないでしょうか。だからこそ、暫定的な決着をつけることで心に平穏をもたらす善と悪という概念が、後天的に開発されたのではないかと僕は思うのです。


つまり、善と悪は魂の高尚さを問いただすような類いのものではなく、ただの物差しでしかないのでは、と僕は思うのでした。みなさんは善と悪について、どう考えますかね?

ほなまた。