あなたの心は、実はあなたの中には存在しないんだよって話
ブンブン、はろーYoutube.
今日は氷風呂入りながら新作アイス食べたいと思います! スッ…冷たい! 冷たいよぉ! ヒィィ!
そんな動画で500万回以上のPV数を叩きだすんですからヒカキンさんはホントすごいと思います。いや実際マジで。
さて話は540度変わりますが、みなさんは人間に心って本当に存在すると思いますでしょうか? 仮にあるとするならば、それはどこに存在し、どんな形をしているか、なんてことは考えたことありますか。
近代哲学の限界
デカルトが残した宿題である心身問題(人間の心と体の関係についてのもの)はですね、前提となっている二元論を起点としてはこれには答えられないのですが、実は関係モデル(いわゆる生態学的立場)は解き明かしたのではないかと僕は考えています。
関係モデルとはどういうものかといいますと、人間を精神と物体にただ二分して捉えるのではなく、脳や体やそれらを取り巻く環境とが有機的に関係することにより人間の心はなりたっているのだという視野の広い考え方です。脳が電気化学反応を起こしていることがすべてではなく、その脳を支える人間の骨や筋肉や皮膚、そして地面や空気や重力等の環境、それらすべてが密接に関係しているからこそ、人間の心は成り立っているのだという考え方です。ちなみに僕は関係モデル支持者です。
しかし、僕の中ではここで新たな疑念が浮かび上がるのです。その心なるものは果たしていったいどんな形をし、そしてどこに存在しているんだ? というものです。
心の位置とその数
まず、心が1つしかないと仮定してみましょう。そして誰かや何かを失い、感情は疲弊し心は欠損し、しかしなにか別のもので空白や空洞を埋めたり、時の流れが解決してくれるとします。するとどうでしょう、これらの過程を幾度となく経るうちに、もはやあなたの心は原型を留めておらず、まるでつぎはぎだらけのパッチワークのような存在になってしまっていると考えられないでしょうか? そのような存在になりさがってしまった心で感じることを、果たしてあなたは真だと言え、この世界を忠実に描写していると自信を持って断言できるでしょうか?
そうではないと、私は考えています。あなたの心はあなたの中に1つしか存在するのではなく、心のそれ自体は複数であり、あなたと関係するすべての対象物の中にあなたの心は遍在しているのではないかと考えています。ちなみに、この遍在とは偏っているという意味ではなく、あまねくすべてのものにという意味の「遍」です。そしてそのあなたの心なるものは実は記憶との相関関係にあり、対象物に関する記憶によってその量や質・大きさは変化するものなのだと言えると考えます。
「満たされる」という表現
これがどういうことか少しくだいて説明します。心というものは、例えるなら大きさが変化するコップとそれに注がれる水とを足し合わせたようなものなのです。より親しい人には大きなコップと大量の水が、ネット上で言葉を交わす程度の人には小さなコップと少量の水が、それぞれあなたの心として対象物に与えているということです。しかし、その大きさと量は接触回数や思い入れの深さ、つまり記憶によって変化するのです。
そしてここで、なんらかのキッカケにより対象物との関係性がそれぞれ失われたとします。おそらくですが、あなたはその失われた関係性に対する喪失感の大きさが、実はそれぞれ異なっているのではないでしょうか。嘆き悲しみ、頬を伝う涙。それらの質や量が、必ずしも一致しないのではないでしょうか。それは心があなたの内部には存在せず、唯一1つのものではなく、それぞれの対象物内に存在し、そして対象物に対する記憶の強弱や鮮明度によって変化しているからとは考えられないでしょうか。
無常
心なるものは存在すると思います。人間に感情がある限り、それは真だと言えるでしょう。しかし、その心なるもの自身の内部には存在せず、関係するそれぞれの対象物に遍在しているおり、さらには記憶との相関関係にあるため質や量や形が変化しているからであるという証拠ではないでしょうか。私たちの世界には「心にぽっかりと穴があいたようだ」という表現がありますが、これは対象物との関係性の喪失によって引き起こされる心情表現をを少し曖昧にさせてしまった、1つの誤ったレトリックかもしれません。
あと僕ヒカキンさんじゃないです。
ほなまた。